あいさつ

ブログ「自由をもとめて」開設にあたってのご挨拶

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ブログ「自由をもとめて」開設にあたってのご挨拶

自己紹介

 新ブログ、「自由をもとめて」へご訪問くださりありがとうございます。これまで応援してきてくださった皆さま、今後ともよろしくお願いいたします。

 はじめましての皆さま、簡単に自己紹介をさせてください。

 松本麗華と申します。

 道ばたに咲いている小さな花や、山河や空の写真を撮るのが好きです。コンクリートの隙間などから頑張って顔を出している花を見ると、思わずしゃがんで写真を撮ってしまいます。

 ときどき「すみすみ」というゲームもしています。あのほんわかした絵に癒やされます。かわいいです。

「すみすみ」公式サイトより

 仕事は事情があって、離職続きです。それでもあきらめず探し続けています。今は相談業務や、「一般社団法人共にいきる」のお仕事を頑張ります。

 よろしくお願いいたします。

 これまでの人生

 わたしの父はオウム真理教の創設者で、わたしは3番目の娘として生まれました。

 5歳のとき、親に連れられて教団施設に引っ越しました。

 父は5歳のわたしに、「ウマー・パールヴァテイー・アーチャリー」という宗教名を与えました。教団の人は略してわたしを「アーチャリー」と呼ぶようになりました。

 11歳のとき、いわゆる「オウム事件」が起き、12歳で両親が逮捕されました。

 当時は、オウム関連の報道をすれば視聴率が稼げる時代だったと、報道機関の方から何度もうかがっています。今振り返れば「教祖」という中核を失った上、幹部が根こそぎ逮捕され、「オウム真理教」の報道価値が落ちていたのかもしれません。そのためもあって、わたしは、教団の危険性や「悪」の象徴として、マスコミに報じられるようになりました。

 会ったこともない人を殺せと命じた、信者の拉致監禁を命じた、教団を離れようとした信者を水死させるよう指示したといった内容の、まったく身に覚えがないおそろしい報道の数々。

 わたしが、わたしではなくなってゆく――。

 アパートのベランダから、夜間にマスコミに侵入されたこともあります。水着姿を盗撮されたこともあります。こわくても、誰も助けてはくれません。報道被害を食い止めたくて、教団の広報の人に裁判を起こせないかと相談したこともありました。

 しかしその人はなぜか未成年者は裁判を起こせない。どうしようもないのだと言いました。本当は、親権者の同意があれば裁判は起こせたのです。

 小学校に1日も通ったことがなく、自分の名前さえ漢字で書けなかった当時のわたしは、その人を信じ、泣き寝入りするしかありませんでした。

 どんな報道をしても反撃されないため、報道被害は積み重なり、いつの間にかわたしには人殺しも厭わないモンスターのような、わたしとは別の人格が与えられていました。

 「麻原三女」「三女アーチャリー」「アーチャリー」として。

 ――わたしの知らない「三女アーチャリー」が、またバッシングされている。「三女アーチャリー」はわたしの知らないひと。わたしには関係ない。

 やがてわたしは、マスコミに強要された別の人格を遠くから眺めるようになりました。そうしなければ、生きてはいけなかったのだと思います。

 けれど、道を歩いていたら通報され、小学校、中学校と義務教育も拒否される現実。いくら別人格だと思って心を守ろうとしても、その被害は松本麗華であるわたしに及んでしまうのです。

 2000年――今から21年前、わたしは松井武弁護士や、わたしが社会で生きて行けるよう支援して下さる方に出会う幸運に恵まれ、16歳で教団を離れました。

 松井先生が支えて下さり、わたしは未成年のうちから報道被害と闘いはじめました。それでも、すでに社会に根付いてしまった「偏見」は、至るところで松本麗華に影響を及ぼしました。

 高校、大学と幾度も入学拒否を受け、結局、裁判を経て拒否された大学の一つに通いました。わたしを松本麗華として見て下さる裁判官が担当して下さらなかったならば、わたしは大学に行けなかったかもしれません。

 仕事もたくさん失いました。わたしが自活していると教団と関係がないことがばれて困るのか、おそらくは公的機関が、仕事先に身元を報せるということもありました。

 わたしは教団とも裁判で闘ってきました。教団はわたしを「悪魔」と呼び、客観的に訴訟対立関係にあるにもかかわらず、わたしが今でも教団の関係者であり、教団を支配していると主張する人がいます。

 わたしは教団に迷惑をかけられ、被害を及ぼされた当事者として、教団には即座に解散してほしいと願っています。

 わたしが今を生き、未来へ向けてあゆむためには、逆流にあらがい、心許ない足場をさぐり、少しでも前進し続ける努力が必要です。

 生まれや子どものころに親や大人に与えられたもの、報道機関に犯罪者や人殺しのような人格を作られたこと。それらがまた巡りにめぐって、さらなる名誉毀損がなされ、仕事を首になり、生きる道を拓くことができない。

 2018年7月に父が亡くなったとき、正直わたしは疲れ果てていました。足元がばらばらと崩れ、自分が生きていることが不自然に感じられました。

 いつか「その日」が来るかもしれないとおそれていたのに、実際に父が亡くなると、途方もないことが起き、想像したこともない世界に放り込まれたかのようでした。

 混乱し、泣き叫ぶわたしの話を長々と聞いてくれた友人、「あなたは今も呼吸をしているんですよ。生きているんです」と仰ってくださった松井先生。父に花やお菓子をくださり、わたしの父としていたんで下さった方々。LINEやSNS等で温かい言葉をいただけば、声に出して涙を流しながら読み上げていました。自分でもう限界だと分かっていたのかもしれません。優しい言葉、優しい思い、そういうもので身体を満たさないと壊れてしまうという感覚でした。

 わたしは自ら情報発信をすることがほとんどできなくなっていました。生きる覚悟もできず、今後情報発信ができるのかということにも悩んでいました。目的も見失っていました。

 わたしが、このままではいけないと思ったのには、いくつか理由があります。

 皆さまの励ましをいただいたこと、呼吸をしている限りは生きていかねばならないこと、ある裁判の判決への絶望などです。

わたしは松本麗華です

 15年以上前に家を出て行った妹は、わたしに身に覚えがないことを、あたかも事実であるかのように公の場で主張してきました。

 彼女はわたしに暴力を振るわれ、「命を落としていても、不思議はな」いことをされたと主張したこともあります。「麻原の三女」の被害者であるふりをしたら、社会から同情と歓心を得られると、学んでしまったのかもしれません。

 わたしは妹にそんな暴力を振るったこともなければ、命を脅かしたこともありません。このままではまた犯罪者として扱われると耐えかねたわたしは、わたしを取材することもなく、反論をする機会も与えずに妹の主張を記事にしたライターとともに、名誉毀損訴訟を起こしました。

 その裁判の法廷でわたしは、自分は麻原彰晃の三女ではなく、松本麗華という独立した個なのだから名前で呼んで欲しいと訴えました。

 今年の2月24日判決がでました。出された判決を読んだとき、わたしは目を疑いました。

 裁判所はわたしをオウム事件とからめ、判決の中でも「三女アーチャリー」として扱っていたのです。判決に繰り返し羅列される「アーチャリー」という名。

 ――わたしは松本麗華なのに。

 裁判所はいいます。

「麻原の三女であり、地下鉄サリン事件当時のオウム真理教においてアーチャリーというホーリーネームを有する正大師の地位にあった」と。

 当時11歳だったわたしは、事件には一切かかわっていません。法廷では、そういう宗教的地位を幼い子どもに父が与えたことは、社会的に見れば虐待だと思うというということも訴えていました。

 この裁判は父の裁判ではなく、わたしの裁判なのに、なぜ裁判所はわたしを父と同一視したのでしょうか。なぜ裁判所は、父を本名でなく、「麻原」と呼ぶのでしょうか。裁判では戸籍名が使用されるはずなのに。

 さらに裁判所は、現在もわたしが「アーチャリー」として活動しているとまで判決に書いたのです。事実無根ですから、もちろん証拠はありません。

 わたしはこの判決を読んで、このままでは一生鎖につながれて生きることになるのだと改めて知りました。教団を離れてから21年。これだけの時間が経っても、裁判所までもが、わたしをオウムに縛り付けようとする。

 ひとは誰もが、誰かの子として生まれ、与えられる環境の中で育ち、大人になってゆきます。子どもはひとりでは生きられず、自らが育つ環境を選ぶこともできません。

 わたしは形式的にであろうと、「正大師」になどされたくはなかった。ただ、お父さんといたかった。叱られても納得ができないことがあれば反発し、説教され、親子喧嘩をしながら自立していく。そんな関係でいたかった。

「お父さん、教祖になんてならないで」

「お父さん、麗華たちだけのお父さんでいてね」

「お父さん、わたしを置いていかないで!」

 ……時間が過去から現在、未来へと流れていく以上、過去に戻って父に語りかけることもできません。

 何度過去に戻ることを夢見たことでしょう。今の知識を持って、過去に戻りたい。幼き日に戻って、父と話したい。この人生を、自ら望んだ訳ではありません。

 わたしが父の娘であることは事実です。父が教祖だったため、教団施設で育てられたというのもまた事実です。これらはわたし自身の逃れられない過去、逃れられなかった過去であり、もう変わることはありません。

 問題は、過去は過去で、「今」ではないということです。

 わたしが幼いころ、携帯電話は普及していませんでした。でも今は、ガラケーを持っている人が、「スマホ持ってないの?」と言われる時代です。時代の流れとともに技術も進歩し、情報も更新されていく。古いものは古いと、認識する。これはごく自然なことだと思います。

 しかしなぜかわたしは、自分の名前を漢字で書けるようにもなり、教団から離れ、大学も卒業し、松本麗華として仕事をして生きてきたにもかかわらず、そのことは認められません。実在する松本麗華は無視され、25年も前の「過去」があたかも「今」であるかのように扱われるのです。

 現代日本では、誰もが平等で、社会的身分や生まれによって差別されないことになっています。しかし裁判所まで「麻原の三女」としてわたしの生まれを理由にし、親の「身分」ゆえに置かれていた子ども時代の環境をもって、「今」を否定しました。

 ――それが「現実」なのだと、わたしは認めざるを得ませんでした。

自由をもとめて

 もう自由になりたい。こんなことは終わりにしてほしい。

 そう思ったとき、わたしが強く自由をもとめ、生きるために闘い続けてきたのだということを痛感しました。 

 「松本麗華」という人の情報発信をやめてしまったら、わたしは、誰かの望む「麻原三女」「三女アーチャリー」の人格を社会的に定着させられ、松本麗華は消されてしまう。

 わたしが松本麗華として生きていくためには、当事者の口から事実を明らかにし続けるしかない。

 もう一つ。この日本には、「加害者家族」に、発言自体を許さない空気があります。わたし自身、数え切れないほど黙るよう言われてきました。当事者は発言するなと言われることもあります。当事者が口を開かなければ、誰も事実を語ることはできません。

 わたしは自分が黙ってしまえば、他の「加害者家族」とされる方たちに加えられる沈黙を強制する圧力に、加担してしまうことになるのではないかとも感じています。

 少数派であればあるだけ、沈黙はしない方がいいと思います。最初は一人かもしれません。しかし、それを耳にした誰かが、勇気を持って口を開くかもしれない。それを聞いてまた誰かが声を上げるかもしれない。少しずつでもいい。少数派と感じている人一人一人が少しずつ声を上げていけば、その声は大きくなり、やがては多くの人の耳に届くのではないかと思います。

「普通は黙るだろ」「常識を考えろ」といった「普通という暴力」を受けることなく、少しずつ生きやすい社会になっていくのではないかと思っています。

 わたしは松本麗華です。

 組織の後ろ盾を持ない、非力な一人の人間です。

 わたしは松本麗華として、自分が行ったことの責任だけを取る、そんな人生を歩みたい。

 不安でこわいけれど、わたしは自由を求めて、今ここに、おそるおそるもう一歩を踏み出そうと思います。

 「自由をもとめて」

 このブログのタイトルには、そんな思いを込めました。

 更新はのんびりになるかもしれません。あたたかい目で見守っていただけると幸いです。

 今まで応援してきてくださった方々、支えてきてくださった方々に、改めてお礼を申し上げます。

 はじめましての皆さま、これからよろしくお願いいたします。

 わたしだけでなく、誰もが個人として尊重され、自分の人生を歩み、自由になれますように。

 2021年4月30日
 松本 麗華 

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