2021年10月26日、眞子内親王が小室圭さんと結婚し、小室眞子さんとなられました。以下、眞子さんと書かせていただきます。
同日に行われた記者会見に臨まれた眞子さんは、気丈に前を向き、凜と姿勢を正しておられました。はっきりと聞き取りやすい声で、ご自分の気持ちを説明される眞子さんからは、ご自分が誹謗中傷されようとも、小室圭さんを守るという、芯の強さと愛情の深さが伝わってきました。
同時に、皇族として生きることへの絶望。
「海外に拠点を作って欲しいと私がお願いしました」という言葉から、小室圭さんが渡米したときにはすでに、日本では生きていけないと考えておられたのでしょう。この4年間、どれほどにつらい思いをされてきたのかと、胸が痛みました。
結婚し、これから新たな人生が始まるというのに、眞子さんの双眸は光を失い、強い緊張や恐怖と闘っているように見えました。その表情はぎこちなく、喜びや将来への希望も感じられません。
隠しきれない無力感と、怒り。強い自制と、抑制。まるで最後の力を振り絞っているかのように、顔を上げ正面を見る眞子さん。その姿はあまりに痛々しく、見ているうちに頬を涙が伝わりました。
眞子さんはこの4年間、その生まれゆえに逃げ場もなく、反論さえできない「皇族としてのお立場」に置かれたまま、激しい報道被害にさらされてきました。
第三者であるわたしの目から見てもその内容はあまりに一方的で、決して公平とは感じられませんでした。眞子さんをはじめとした秋篠宮家、小室家の方たちは顔と名前をさらされて名指しでバッシングされる一方、眞子さんたちを糾弾する人たちは、顔も名前も伏せられ、今もなお守られ続けているという不公平さもあります。
眞子さんは結婚会見で、 「圭さんのすることが、独断で行われていると批判され、私の気持ちを考えていないといった一方的な臆測が流れるたびに、誤った情報がなぜか間違いのない事実であるかのように取り上げられ、いわれのない物語となって広がっていくことに恐怖心を覚えるとともに、つらく、悲しい思いを」したと語っています。
このことから、これまで小室圭さんが眞子さんの気持ちを考えず、物事を独断で行っているといった趣旨の報道は、誤報、「物語」であったことがわかります。
眞子さんの妹である佳子さんも、結婚にあたって「結婚に関して、誤った情報が事実であるかのように取り上げられたこと、多くの誹謗中傷があったことを、私もとても悲しく感じていました」とコメントを出していることから、事情を知る妹さんの立場からしても、多くの誤報、誹謗中傷があったというのは事実でしょう。
そもそも、マスコミがよく使う「○○関係者」というのは、その人が実在しているかさえ確認することができません。誰が発したか特定できない情報は、いくらでも創作できてしまいます。
しかも、反論も許されないとあっては、どんな「物語」も作り放題でしょう。そうして、「物語」を材料に新たな「物語」がつくられ、報道被害が拡大していくことになります。
わたしも、「物語」を作られてきた当事者です。
報道被害が始まったころ、わたしは未成年でした。教団の人に未成年者は訴訟ができないと言われ、自衛することができなかったわたしは、マスコミにとって格好の報道対象となりました。
「物語」は、人々の興味を煽るため、際限なく過激さと創作性を増していきました。例えば、わたしが「かわいいから殺して」と殺人の指示を出したという報道がなされ、その報道によってはじめて、その人の存在を知るといった具合です。
ようやく訴訟を起こすことができるようになったとき、わたしは既に、犯罪者・凶悪・狂暴な人間として烙印を押されてしまっていました。――「物語」によって。
わたしは生まれや子どものころに置かれていた環境だけでなく、「物語」の被害により、いまだに「人権などない人」のように扱われることがあります。憲法で保障されている海外渡航の自由など、いくつかの権利を実質的に奪われている状態でもあります。
心を削り取られるような無力感が降り積もっていく感覚を、どう表現していいかわかりません。
皇族もまた、「人権などない人」のように扱われます。象徴天皇制そのものが、基本的人権を持たない人たちを前提として成り立っているからです。
しかし、「制度」がどうあろうと、皇族もまた人間です。眞子さんがご病気になれたように、バッシングや誹謗中傷を浴び続ければ、ひとは壊れてしまいます。
しかも、眞子さんが皇族は「公に発言する機会は限られてき」たと言ったように、自由に発言することもできません。ましてや、報道に反論したらマスコミからさらなるバッシングを受けることになります。
2019年3月22日、眞子さんの妹である佳子さんは「姉の件に限らず、以前から私が感じていたことですが、メディア等の情報を受け止める際に、情報の信頼性や情報発信の意図などをよく考えることが大切だと思っています。今回の件を通して、情報があふれる社会においてしっかりと考えることの大切さを改めて感じています」と、報道に疑義を呈しました。
政治的主義主張など関係なく、皇族の公平性を損なう内容でもありません。わたしたちが生きていく上で必要な、情報リテラシーについて述べてい るだけです。
しかしマスコミは過剰に反応し、「佳子さまの乱」「佳子の乱」と仰々しいタイトルを付け、バッシング報道を行い、事情を知る佳子さんの口を封じようとしました。そうして、マスコミは誰にとがめられることもないまま、眞子さんやその周囲の人に対しての害意を煽る、扇情的な報道を続けました。
報道被害により、複雑性PTSDまで追い込まれてしまった眞子さんは、報道関係者の前で会見を開いたとき、どんなお気持ちだったのでしょうか。うつむくことなく、最後まで姿勢を正しておられましたが、とても怖かったのではないかと思います。
また、バッシングされると承知しながら、結婚に際してコメントを出した佳子さんは、どんなお気持ちだったのでしょうか。
存在するかどうかもわからない「関係者」の話や、顔や名前を隠し、安全な場所で守られながら眞子さんたちを批難する人たちの話。それを「報道」という大義名分を掲げて報じる人たち。「国民」の意思の代弁者であるかのように、高みから見下ろし、ジャッジを下す報道の数々。
それはSNSによる匿名の誹謗中傷と、何が異なるのでしょうか。